両親の影響で理容師となり、周囲に反対されながらも大阪で谷稔氏に師事。27歳で東京・銀座で独立開業を果たした松永さん。順調に事業を拡大させ、直営店を複数展開しているほか、従業員に独立を推奨し、のれん分けの形で姉妹店も複数展開中。早くから海外進出に積極的で、ドイツとベトナムにも出店しています。今現在も毎日サロンに立つ松永さんの、理容師としての原点、スタッフ教育について、人材確保のためにやるべきこと、夢を叶えるために必要な思想など、心に染みる言葉の数々をご紹介します。
ライター 森永 泰恵 | カメラ 長須賀一智 | 配信日 2018.7.26
谷稔先生の作品に心を打たれ、大阪で修業をすることに
理容師を志したきっかけは何ですか?
両親が理髪店を営んでいましたので、子どもの頃は店が遊び場で、お客様からかわいがってもらいました。うちのお店は町の集会場のような存在で、農作業ができない雨の日には、店に入りきらないくらい人が集まっていました。ガヤガヤと楽しくおしゃべりをしながら、1時間でも2時間でもカットの順番を待っているんです。ボサボサの頭がすっきりカッコよくなっていくのが子どもながらに不思議で面白かったです。そんな環境で育ったこともあり、両親の仕事ぶりを小学生の頃からいつも身近に見ていて、楽しそうだなと自然と思っていました。特に母は意欲的で仕事熱心でした。長男だから家を継ぐものだという先入観もありましたが、図画や工作が得意だったこともあり、自然に理容の世界に進みました。
中学を卒業すると新潟市内の理容専門学校へ通い、市内のお店で4年余り修業を積んで、入社4年目には19歳で店長になりました。その後、実家に帰って家を継ぐか修業を続けるかを決めなければならない時、私は大阪でさらに修業を積むことを決意したんです。そのきっかけを作ってくださったのが、谷稔先生でした。当時、大阪の心斎橋でお店をされていた谷稔先生が、新潟で講習会をしてくださり、それに参加したことがありました。当時は動画も何もない時代ですから、技術は生で見るしかありません。この日は、新潟市内の理容師全員が来たかと思うほどの人数が集まっていたのですが、私はその時、谷先生がこれまで見たこともない美しい作品を作っておられたのを見て、もうここへ行くしかない、と思ったのです。しかし、周囲からは反対されました。大阪へ出発する前日に、本家のおじいさんが私に説教するわけです。わかりました、と言わないと帰してくれない。仕方なく「わかりました」と言って、翌朝、予定通り大阪に出発しました(笑)。実は、母だけは内心、反対ではなかったようです。父も母も若い頃に東京に修業に行ったことがあったので、理解があったのだと思います。
必死に働いてお金を貯め、銀座で独立
27歳で独立されるまでの道のりを教えてください。
谷先生は厳しい一面もありましたが、とても魅力的な方で、修業に行ってよかったと思いました。当時は個人で本を出す人はほとんどいませんでしたが、谷先生は自分の作品を写真集にしたり、アジア各国で活躍したり、国内のコンテストでも優勝されたりしていましたから、本当にすごい方でした。特に創作性に富んだ芸術的な作品に定評がありました。修業期間中は毎日終電まで練習練習の日々で大変でしたが、住み込み従業員の仲間たちと一緒に帰りにたこ焼きやラーメンを食べたり、みんなで銭湯に行ったりして楽しかったですね。辛いと思ったことはほとんどありません。そんな中でお客様から指名されたり、競技会で入賞したりすることは本当にうれしかったです。谷先生のところで4年ほど修業し、東京で独立することを目標に上京。東京・八重洲のお店で働くことにしました。スポンサーもいない、親にも頼れない、となったら自分でお金を貯めるしかありません。当時、今の女房と婚約していたのですが、彼女の協力もあり、私の給料は全額貯金する生活を始めました。彼女は私の独立を応援し、その生活を望んで支えてくれたんです。4年半くらいかかりましたが、27歳の時に縁あって銀座で独立することができました。出店場所はどこでもよかったのですが、大阪でいちばんいい場所が心斎橋だとすると、そこに匹敵するのは東京なら銀座だ、と思ったんです。ちなみにお金を貯めようと必死で働いていたその八重洲のお店は、今では私が引き継いでいます。
「理容は芸術だ」という言葉が、私の原点
最初から経営は軌道に乗りましたか?
そうですね。私は人の2倍働くことをモットーとしています。率先垂範(そっせんすいはん)してこそ、お客様と従業員を動かす原動力だと感じていますから。体力、気力が持続したのは、理容の仕事が面白く、お客様に喜んでいただき、毎日が楽しかったからです。悩みといえば、今も昔も人手不足ですね。私の経営者としての原点は、「理容は芸術だ」という思いにあります。この言葉は谷先生の出版物にも書かれており、とても共感しました。それが今でも私にとって大切な言葉です。

松永巳喜男(マツナガ ミキオ)
銀座マツナガ代表取締役社長。1941年、新潟県出身。大阪・心斎橋の谷稔氏に師事。27歳の時に東京銀座中央通りに独立開業。現在、中央区周辺に8カ所、ドイツ2カ所、ベトナム3カ所に店舗を展開中。これまで姉妹店として11店舗を従業員に渡す。「ありがとう千客万来」(ヒューマンウェア研究所)を2003年に出版。

◇「温故知新」たるおもてなしの精神によるサービス、当たり前の感動を提供することをモットーに、創業50年を迎える理容室。中でも「GINZA MATSUNAGA DE CLASSE」は全室個室の最高級店で、著名人を含め多くの顧客から高い支持を集めている。